先日も書きましたが、14日から16日まで行われた「小松特別公演」では、能楽 舞囃子「安宅」、海老蔵さんの妹の市川ぼたんさんの舞踊「賤の苧環」、そして歌舞伎十八番の内「勧進帳」という、源義経ゆかりの演目3題が演じられました。
最終日の16日は、「安宅」「勧進帳」の舞台となった安宅の関跡の特設会場が舞台となっています。
歌舞伎の勧進帳は小松でも過去に何度か開演されたことがありますが、安宅の関跡で演じられるのは今回が初めてです。
安宅の関跡での勧進帳の舞台は、海老蔵さんの御父様故12代市川團十郎が、30年前から実現したいと思いながら実現できなかったようでもあります、
決まった時から当日の天気が心配でしたが、日頃の行いでしょうか?お昼過ぎからは曇り空で、日本海に沈みゆく夕日を見ながらの観劇とはなりませんでしたが、最後まで雨に見舞われることはありませんでした。
何と!海老蔵さんが東京に戻られるため飛行機に乗り込んでから雨が降り出すという、小松安宅の関跡で史上初めて上演される歌舞伎「勧進帳」に天も味方してくれたようです。
開演は16時から。日中は乾燥していましたが、夕方からは湿度も上がり凛とした空気が漂う中、まず能の「安宅」が始めります。
この時間帯は、まだ薄暗い感じだったので、背景の松の木や海岸線なども見えていました。本当は能も夜に演じられ、かつ薪能だったら、これぞ幽玄の世界となって余計感動したかもしれません。
続いて海老蔵さんの妹、市川ぼたんさんの舞踊「賤の苧環」です。こちらも源義経にちなんだ演目で、静御前の秘話が優美な踊りで表現されました。
そして最後は、初代市川團十郎が元禄15年(1702年)に星合十二段として原型を作ったとされる歌舞伎「勧進帳」。7代目團十郎が能の様式を取り入れ、天保11年(1840年)にいまの物語で初演され、さらには明治時代に9代目市川團十郎により現在演じられているものに近い形で完成されています。
歌舞伎「勧進帳」は、1702年に最初に演じられて以来、物語の場所である小松の安宅の関では一度も上演されたことがなく、先ほども書いた通り、故12代市川團十郎でも叶えることが出来なかった夢の舞台だったのです。
最初、どんな舞台設営になっているの興味津々でしたが、これがまた素晴らしかった!
今からおよそ830年前、義経と弁慶が安宅の関を通ったとき、実際のところはわかりませんが、当時の様子が目に浮かぶような舞台となっていました。
歌舞伎において能や狂言の曲目を原作とし、それらに近い様式で上演する所作事のことを「松羽目物」と呼びますが、能舞台の後部にある大きく松の画かれた羽目板(背景絵の描かれた板)のことを「松羽目」といい、勧進帳では大きな松と松林が背景の絵として描かれています。
しかし、安宅の関跡の特設舞台では、そんな松羽目は必要なく、すべて実際の風景が背景となっているのです。とくに右側に一本そびえる松の木が良かった!存在感ありました。(笑い)
そんな舞台で演じられる市川海老蔵と中村獅童の勧進帳。興奮しないわけがありません。
弁慶が勧進帳を読み上げるところや、弁慶と富樫の山伏問答。実際は創作のお話だと思いますが、本当にこの安宅の関で830年前に行われた事実だったかのように錯覚さえ覚えるほどでした。
クライマックスの弁慶の延年の舞も、舞台で観るより勇壮な舞に見え、最後の飛び六法で退場する時も、後ろのほうの席だったけども大きな弁慶の存在を感じられました。
場内の観客も感動と興奮を隠しきれずに、終了後も拍手が鳴りやまず、海老蔵さんと獅童さんもカーテンコールに応える形で再度舞台上に現れ大きな拍手を受けていました。
会場には、海老蔵さんのお母様もお見えになられていました。そうそう!海老蔵さんのブログでも書かれていましたが、写真家の篠山紀信さんの姿も見かけました。
私の友人知人の皆さんにもお会いしました。
小松市のイメージキャラクターのカブッキーまで会場にいましたね。(笑い)
多くの方が待ち望んだ、今回の成田屋、市川海老蔵が弁慶を演じる勧進帳の公演。大成功に終わったのではないでしょうか!?
また、近い将来、同じ安宅の舞台は難しいかもしれませんが、ぜひ歌舞伎のまち小松の地で演じていただけますことを心から願っております。
最後に、後先逆になりますが、13日にとり行われたお練りについても写真をアップしておきます。
私は仕事で見に行けませんでしたが、妻が出かけてきて写した写真です。
普段の平日は小松駅前も閑散としていますが、この日は主催者発表で1万人の大勢の方々が、海老蔵さんと獅童さんを見に来ていました。凄かったそうです。^^;